昭和47年03月11日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり大まさりのおかげを受けることができるぞ。」
神の大恩を知れば無事達者で子孫も続きと、一年まさり代まさりのこれは人間の幸福と繁栄、そういう人間の誰しもが願い続けておるところのおかげが、神の大恩を知るところから、勿論神の大恩がわかれば、その大恩に報いる生活が出来るという意味でございましょう。大恩を知っただけではいけん。知ればその大恩に報いる生活が出来るところから、一年まさり代まさりのおかげになっていく。しかも信心して神の大恩を知ればと仰るのですから、只本を読んで只理屈を聞いて。
いわゆる成程と言っただけではいけないと言う事が解りますね。信心して神の大恩がわからにゃいけん。しかもその信心して神の大恩が解ると。だからその信心と言う事がどういう信心をさせて頂かなければならんかと。ここには機感という言葉が幾つも使ってある。神の機感に適わん。神の機感に適わぬと身代もあり力もあるが壮健でないと言った様に、所謂互い違いになってくるというのである。神の気感に適うような信心でなからななきゃならんと言う事である。ね、所謂神の機感に適うた信心。
どうぞ今日も神様の御心に適う一日、適う信心生活が願われなければならんと言う事になりますね。非常に熱心に御参りが出来るとかと言う事だけでは、やはり神の機感に適うと言う事ではありません。ね、熱心にお参りさせて頂きもする、熱心にお話も聞かせて貰うが、それが神の機感に適うた生き方、生活をさせて頂く事を願うての一生懸命のお参りでならねばならんと言う事になる。ね、そうしないとです神の大恩が解らんです。信心して神の大恩を知ればと。
なら話を聞けば神様のいわば大恩、言うならば天地の大恩と。言うならば御恩恵と、中に私どもがあるとい事が解る訳です。ね、ですから本当に朝、目が覚めると言う事でも、洗顔をさせて頂くと言う事でも、一掬いのそのお水の上においても、お食事させて頂くにおいても、もう一切合切のその天地の親神様のお恵み、所謂御恩恵の中にあるのだと言う事を、是は矢張り一応誰でも成程そうだと合点がいくと思うです。
これは信心があろうがなかろうが、誰しもが御恩恵なしには生きておられんのでございますからね。けれども私だけが頂いとるとじゃなか。誰でん貰うとるとちゃからと言った様なものが、所謂その当たり前と言った様な事になるのです。あれが特別にね、久富繁雄さんなら久富繁雄さんだけに、お水が与えられてあるとか、高橋定利さんなら高橋定利さんだけに何々が与えてあるというならね、これは特別のおかげを頂いておると思うて、やっぱりちっとは有難いでしょう。
所が是はもう、それこそどこの誰であろうが一様に頂いておるのですから、私だけが貰うとるとだけじゃなかもんじゃけんというものがあるのですよね、誰にでも。ね、ですからその話を聞かせて頂くとです、そこの所がそこにお礼を申し上げる心とか、本当に神様の大恩の中にあるのだなと言う事を、所謂あまりにも偉大あまりにも大きいおかげですから、知らずに見過ごして、それをもう当たり前のように、感謝の念も起こらない人もあろう。又は話を聞いて、成程天地の御恩徳。
天地のお恵み、天地の御恩というものがわからせて頂いて、まあ頭の中だけでも天地に対する感謝の心というものが出来てくるけれども、その程度の事ではです、私は子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげといったようなことにはならないと思うです。ね、まあ信心はしなくても、まあ普通の常識のある人だったら、そのくらいのことは知ってますよね。昔何とかいう、徳川何代かのお殿様で、自分の居間にお百姓さんの像が飾ってあったということですね。
食事の前に必ずそのお百姓さんの仕事しておる、お人形です所謂ね。その前に合掌して「今日もあんた達が一生懸命働いて来てくれて、お米が出来たりお野菜が出来ておるということ、それを私どんがこうやって座って何もせんなり頂いとる事は有難い」と言うて、あのお百姓さんの像にお礼を言うたという殿様がありましたね。だからその是はお百姓さんを通して天地に対する所の感謝をその様にして表して行っておると。
だからそれを繰り返しておるということだけでも、何とはなしに尊いことです、有難いことなんですよね。けどもその程度のことなら誰でも知ってる。ね、なら、そのたくさんの知った人達が、一年勝り代勝りのはたしておかげを受けておるかというと、受けてないという事実をね、思うてみるときに、その程度の神の大恩を知った程度であっては、駄目だということがわかります。心の中に、ね、感謝する心、御礼を言う心といったものが自ずと出来てくる。
ですから、自然態度も謙虚な態度になって来るわけです。だからその謙虚な態度になったくらいなことでは、ね、これだけ天地の御恩恵を受けておるのだから、ね、御礼を言わにゃならんと、感謝の、毎日感謝の生活をせんならん。その感謝の生活をせなければならないということがわかって、なら感謝の生活を、ま、?の程度にさせて頂いとるくらいなことでは、無事壮健で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝り、いわゆる私どもが願って止まない、おかげにはつながらない。
ですから、も、ここの所がほんとに難しいことだと、ね。信心して神の大恩を知る、信心して神の大恩を知るということ。信心が深まって行けば行く程、天地の大恩ということがいよいよ深くわかって行く。その深くわかって行くことが、深い広い思いにおいての報謝の生活ということになる。それに報い奉る生活ということになる。ね、だから信心をいよいよ深めていかねばならないということになる、ね。
私、昨夜の月次祭にもあの聞いて頂きましたですね。金光教の信心がもういかに有難い、素晴らしい、いや合楽で今、日々説かれておるこということが、どんなに高度な宗教思想とでも申しましょうか、であるかということをね。だからそこんところを本当に、お互いが把握させてもらうというか、その例に申しわけなかったですけども、霊友会の話をさせてもらいました。この本なんです。
皆さんご覧になる方があるならお貸しします。大体私は読んだですからこれに一杯。その霊友会の小谷きぬという方ですね。教祖的な方のおわけですけれどもね。所謂徹頭徹尾、御先祖の供養さえすれば人間が幸せになれるんだという、もう持論ですねこの方の。もう始めから最後までそれです。ですから私どもが信心しとって、どうしてこう言う事が起こって来るだろうかという時には、もう信心が留まっておる、もう信心じゃないというふうに教祖が説いておられるふうに、この方の霊友会の場合は、ね。
いかにお先祖を大事にしたり、供養したりしよるけれども、やはり難儀な問題が次々と起こってくる。たならば、これはまだ御先祖様に対する供養が足りぬのだということになるのではないだろうかと言うて話したことでしたけどね。ですからその成程お先祖様を大事にすると言う事は大変大事な事どころではありませんし、もう家の根ですからね。けどもそういう大事な心、大事なことをすると言う事はです、なぜ助かるのかというとね、御霊様が喜んで下さるから私どもが助かるとじゃないです。
御霊様の喜ばれるようなことをすることを、天地の親神様がお喜びになるからおかげになるのです。ここのところがコロッと忘れられるという感じですね、御霊様にそんな力があるはずがないです。御霊様が、例えば私たちが親孝行をすると親が喜ぶ、先祖を大事にする御供養をさして貰うと、そのことを御霊様が喜ばれる親が喜ばれる。そういう情景というかそういう心の状態をです、天地が喜びなさるのです。
天地の親神様が。だから天地の親神様が喜ばれるから、御霊様も助かっていかれることになり、それを供養した私どもも助かっていくという理はキチッとやはり成り立ちます。只御霊さんさえ、先祖さえ供養すりゃ助かると言った様な事はだから非常に、ま程度の低い思想だということになります。ね、金光様の信心をさせて頂け、先日から申しましたように金光様の御信心が本当にわかったら、もう絶対改式せねばおられない。私はそういうふうに極言しましたですね、先月位だったでしょうか。
金光様の御信心が本当にわかって、有難くなったらです、勿論自分自身が助かって行きよるから有難いわけです。ね、金光教の信心がわかるから自分自身もわかってくるわけです。助かってくるわけです。ですから自分の助かりを思うたら親も助けずにはおられん、先祖も助けずにはおられませんです。ですからもう金光教の信心さしてもらって、わかればわかる程、有難くなればなる程、改式をしなければおられないのです。
いかに有難いと言うて改式も出来とらんなら、まだ金光様の信心は本当に有難いと思っていないと言われても仕方がないくらいです。まあそいう意味でその霊友会の信心と、んなら合楽で皆さんに聞いて頂いとる信心とを対照させて頂きながら、ね、成程ここに宗教革命と言った様な言葉で私が表現する、それがなされなければならないか、これは沢山の人がいや世界中の氏子人間が助かって行くためには、どうでもそうあらなければ、いや本当の金光教でなからなければ助からないと言う事になる訳です。
ね、私は昨日もその話、させて頂いたのですけども、もう大変小さい時から、難儀苦労しておられます。お父さんも早くなくされて、小学校も五年生までしかいっておられない、そしてすぐ子守にやられたり、女中奉公したりしながら、まだ十才位の伯父さんか伯母さんの家に奉公に行かれた。そしてそのやっぱり子供ながらでも、苦しい時にはやっぱり仏様拝んだりしますよね。何かにすがるという、それで伯母さんのところからあまり遠くないお父さんのお墓に毎日参った。ね。
もう初めからやはり霊友会にならにゃならんようなものがあるわけですわね。御霊様にそういう接近しておられます。しかも何年間という間は毎日毎日御参りさせて頂いて、その御参りの時に自分の心の中にね、父がね只お水が欲しいと言ったのでなくてね、自分のところのお家のお水が欲しいと言った様な気がしたと。ね、自分の家のお水が欲しいと、それで土瓶を下げて毎日、自分の家までお水をくみに行って、御参りに度に必ずお父さんのお墓にお水をお供えされたという。
そう言う所から、御霊様との交流というものが始まり出したわけですね。これは私もあの家内の父の立ち日。福岡の修行の一番激しい時でしたけれど、あの人と結婚しまして以来、父の立ち日には、必ず批把のお供えを致しました。もう亡くなります時にもうその批把がいわゆる末期の食物であったわけですね。そして「美味しい美味しい」と言いながら頂いたという事を聞きましてね。私はもう以来もう必ずその批把をどんなに高かっても枇杷を買わせて頂いてお供えさせて頂いた。
ところが福岡の修行の真っ最中ですから買うお金がない。ですから随分まだはしりの方ですから、高いですけども果物屋に行って、普通出してあるのは高いですから、もう一ちょ一ちょ千切れたつの、ちょっとこうやわなったごとあるとのあります。一皿が何十円位の、だから大変無理を言うて済まんけれども、というて十円がた買わせて頂いた。ね、丁度小さい中皿位にこう一ぱい盛込んで、まあまけてから、それをお供えさせて貰うて、夜の御祈念に合わせて御霊様に御挨拶をさせて頂いとる時に。
始めて御霊の声というものを聞きました。ですから金がかかったり、どうしようと言う事じゃないですね、ご供養と言う事は。ほりゃはもう沢山のお金をかけて御霊祭りをするとか、かけて御法要を営むとかと言う事ではないですよ勿論。勿論出来ればしなければなりません。ね、それだけのいうなら自分達な毎日贅沢しよってから、御霊様にはお粗末なとか、そんなことは許される筈はありません。
けども、私のその時の私の十円がたの枇杷というのは、もう今で言うならとても十万円がたも以上にあったかも知れませんですね。今の私の十万円というならそう大したこと、ならちょっと十万円出しといて下さいち言や、すぐ出して下さるけども、けどもその時分の十円というのはそんな生易しいものじゃなかった。ね、それでも一生懸命の思い、もう御霊さんてな、もうこげん貧乏しよること知っちゃるけんと言った様な事ではないのです。けどもこの霊友会の会長である方がです、子供の時にね。
しかも水はどこにでもあるけれども、それをわざわざ自分の里の水を汲んできては、土瓶に、ま、一杯づつ供えたという。そこに霊友会の私はもう生まれなければならない基礎というか、土台が出来ておったとこう思うですね。そのようなもう修行という修行は、もうあらゆる、いわゆる日蓮宗ですからもう、大変激しい修行をやっぱしておられるようですね。ね、だからそれは御霊様が喜ばれるということでも、御霊様としては、どうする力もあるはずはありません。
けども御霊様が喜んで下さる、子供が親に仕える、そういう姿がね、天地の心に通じる。言うなら今日の御理解でいうと、神の機感に適うのです。それが、ね。神様の気心に適うのです。私は今日皆さんにね、信心して神の大恩を知るということ。ね、金光様の信心をさせて頂いておればやっぱ信心しとることにもなるし、天地の御恩徳を聞かせてもらう、天地の大恩を聞かせてもらう。
成程今までは知らなかったけれども、一掬いの水一杯でも御礼を申し上げる。米一粒でもお粗末には出来んと言うようなです、それは誰しもが、その程度のとこなら、金光様の御信心である限り、出来とらんはずはありませんもんね。しかし、でけとらん、出来とりますけれどもです、ね、神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげは受けておらんじゃないかと。
そこでです、ここで信心して、神の大恩を知ればとおっしゃることはです、どういうことかというと、ね、神様の心に通うもの、それは水一杯でもよからなければ、腐ったようなね、批把一房ででもよいということを、今日皆さんに聞いて頂きたい、信心してというのは、そういうことなんです。それが御霊様の喜びであり、その御霊の喜びの姿、それがそのまま神のいわゆる神の機感適う。ね、だからいかに信心をさせて頂いておってもです、神の機感に適う信心でなければいけませんということです。
神の機感に適う信心。ね、神の機感に適う信心をさせて貰うからです、とても普通では考えられない御霊の声を聞くといったようになって来るところからです、私ははじめて神の大恩がわかってくるようになるのじゃないかと本当の意味において。話を聞いただけでは知ってはおる、わかっちゃおるけれども、一年勝り代勝りになるようなおかげにはつながってないのです。
ところがこれは、人間誰しもが祈り願うことなのです。ね、一生懸命に働いて、身代が出来たら、この身代を子供にも孫に、子子孫々にいよいよ末広がりになっていくような繁盛を願わないものがあろうか。もう私一代でよかがの、という人は誰もおらん。願って止まないのだけれども、子供が使ってしまう、孫の代には乞食せにゃならんといったようなのが現状なのです。
金光様の信心頂いとってもやっぱりそうなのです。けれどもね、私はもう本当に肝腎要なところ、神の機感に適う信心でないということ。ね、そこで私共がです、神様の機感に適う信心をさして頂きたいということを、神の機感に適う信心生活をさせて頂かなければならんということ。この方も言っておられますがね、「この世で助かっておかんとね、あの世では助かりにくい」と。非常に助かりにくいというようなことを、まあ私の考えと同じようなことを言っておられるとこがありますですね。
この世でまあ今日の言葉を借り、教祖の言葉を借りると、神の機感に適うというね、いくら信心しよっても神の機感に適わん事をしたりしよるとね、それはか必ずガバーッと差し引かれるから同じ事よと言うとられます。必ず差し引かれるです。この世で誤魔化しをえたごとあるけれども、あの世で絶対差し引かれるけんで、正直な生き方をせよと言う様な意味のことを言っておられます。神の機感に適わんのです。
神の機感に適うた信心をさして貰う。ね、しかもその神の機感に適うた信心がね、確かめられた上にも、確かめられて、練られた上にも練られて、その信心が子供に伝わり孫に伝わり、そういう信心が三代続いたら、もうこれは家の徳になるという意味でしょうね。家柄人筋ともまでなってくるとこう。ね、神の機感に適わぬと、信心、身代が出来ても、ね、子供にようしそれを渡すことが出来ん。
身代が、ね、出来たり健康であったりしても大事なものが先立つ様な事になったり、又は子孫を絶ってしてしまうような結果に教えておられますですね。だからそういうことがあってはならん。やはり子々孫々身代もでき一年勝り、代勝りのおかげを頂きたい。そのために私どもが、本気で信心して神の大恩を知らなければいけない。信心してというのは、誰でもしよるけれども、なら神の大恩をわかる程しの信心、又は年勝り代勝りのおかげの受けられる程しの信心でなからなければならん。
それを私は神の機感に適うた信心という風に聞いて頂きました。神の気感に適うということは、決してものが、言うならばもとがいると言った様な事ではない。ね、それこそお供えのならお供えでも、庭の散り葉一つでも神様の心を動かすことが出来る。ね、水一杯でも御霊様が喜んで下さる。十円がつのいうならば批把一皿でも御霊様と交流する程しの、言うならば神の機感に適うたらばそういうおかげになってくる。私共の言わば神恩奉謝の生活をさせて頂いておるつもりであります、私共も。
けれどもその積りであると言う所をもう一ぺん検討させて頂いて、ね、親に対して、人に対して、これは人間関係だけのことではありません。ね、物に対して又はお金に対して、ね、いわゆる難儀のもとになりますところの人間関係とか、難儀のもとになりますところの経済問題とか、人間関係とか、又は不健康の問題と言った様なです、そういうその点だけででも、一つ私共が思い直させてもらはなければいけない。成程これではいつも体が弱いはずだ。これではいつも貧乏するはずだ。
これではいつも自分の周辺に人間関係の波風が立つはずだと言った様なものをです、思わして頂いて、成程神の機感に適わんことを思うたり、言うたりしておるからだと悟らしてもらって、そういう様々な関係の中からです、神の機感に適うあり方を求めての教えを拝聴する。ね、それを土台にしての一心不乱の御祈念ということにならなければならん。神の機感に適うた生き方、神の機感に適うた信心であってはじめて、ね、神の大恩がいよいよ深く広くわかってくる。
これはそこ体験しなければだからわからんのですよ。ね、例えば御霊様との交流が出来るようになるというところから、今までとは違った世界との交流になりますからね。だから天地のいわば隅々の、今までのおかげでないと思うておったうようなことにまで、おかげと気づかせてもらうことになってくるんです。ですからこの神の大恩ということが、いよいよ広い深いくなってくるから。
御礼もまた深い広いものになって行くことは、それに伴うて行くものなのですから。ね、いよいよ一年勝りのおかげの受けられることの信心がそのようにして鍛えられ、または積み上げられていくものだと私は思います。どうぞ私が今言うておることが、行うておることが、神の機感に適うことかどうか、ね、神の気感に適う日々信心生活であらなければ、一年勝り代勝りのおかげにつながると言った様な事にはならんと思うですね。
どうぞ。